About

やりたいことをやっているのに、”頑張れない”と
悩む人のためのライフコーチ けま あや

1989年兵庫県生まれ。大阪府在住。
後継ぎの男児を熱望する家庭の三女として生まれる。
「あなたが生まれた時、お父さんは嬉しそうじゃなかった」と母から聞き、”自分は必要のない存在”と思い込む。

親に必要とされたいと望み、”姉たちに勝つこと”を基準に物事を選択するようになる。高校受験に失敗。
「勉強ができないなら運動で勝つしかない」と陸上競技に励み、県大会出場。
大学受験に失敗、第8希望の大学へ。
陸上競技を続けるが、思うような結果が出ず、1年で挫折し退部。

就活時、周りは教員を目指す中「みんなと違うことがしたい」とフィットネスクラブを志望する。
健康指導に従事するも、夢中になれず。
アスリート指導を目指し退職。
知識をつけるため、大学院へ進学。
同時に陸上競技を再開。
全てのことにやる気が出ず、軽い鬱状態が続く。
大学院修了後、紹介された学校に就職。

人生を模索する中、ライフコーチングに出会う。
自分のやりたいことをやっているのに、頑張れなかった理由は”他人に評価されそうな”やりたいことをやってきたからだと気づく。
自分が本当にやりたいことは何か?自分基準の生き方へシフト。
日々の小さなやりたいことに取り組み、結婚・出産。

本当にやりたいことをやれる人を増やすため、
ライフコーチングを学び、活動開始。

自分史
My biography

こちらの動画では、私の自己紹介として、
生い立ちをお話ししています。
また、ライフコーチングに出会って、
どんな風に人生が変わっていったのか。
どんな想いを持ってライフコーチとして
活動を始めるのか。
そんな話も一緒にしています。
ぜひ一度目を通していただけると嬉しいです^^
より詳しい内容は下にまとめています↓

幼少期 「必要とされていない」「愛されていない」思い込みの始まり

1989年兵庫県伊丹市生まれ、宝塚市育ち。父、母、2人の姉と弟の6人家族。
父は、祖父の代から続く中小企業の経営者で後継の子を期待されている立場だった。だから母は男の子を産まなきゃというプレッシャーもあったようで、私が生まれた時のエピソードを話してくれたのが

「看護師さんが『女の子ですよ』って言ったお父さんの『ありがとうございます』の声が全然嬉しそうじゃなかったんよね!」というもの。

生まれた瞬間の音声を録ったテープがあったらしいのだが、母が我が家の黒歴史として家のどこかにやってしまったとも言っていた。

それを聞いて私は小さいながらに「3人も女の子はいらない。だから、姉2人とは違う特別な理由がないと、自分の価値がなくなってしまう」そんな風に考えるようになった。

今ならわかるのだが、確かに田舎の雰囲気や時代的なものもあって、男の後継がいいという風潮は残っていたはずだ。だから、両親は残念な気持ちもあったとは思う。

ただ、そのことと「私を必要としていなかったか?」というのは別の話だ。
両親が私を愛していたのは明白だったと今は思う。

思い込みというのは不思議なもので、このときから私は「自分には価値がないから、みんなに認められるすごい人にならなければ」と行動するようになっていった。

そして私が5歳の時、弟が生まれた。待望の男の子だった。

末っ子として生きてきた私のポジションを奪われたという顔をしていたらしいが、年下ということもあり、弟に嫉妬することは不思議となかった。

小学生時代 〜「運動ができる私、足が速い私」に価値を感じるように〜

小学生の時の私は、THEおてんばで自由な明るい女の子。外で遊ぶことが大好きで、毎日放課後に運動場で遊んでいた。
大縄跳び、鉄棒、一輪車。特に思い切り走り回る、鬼ごっこが大好きで運動会のリレーはいつもアンカーを任されていた。

反対に姉二人は、いい子で優等生で勉強が得意なタイプ。先生や親の言うことをよく聞いていた。

例えば、晩御飯に唐揚げが出た時に姉たちは「何個食べていい?」と聞いて食べていて、私は何も聞かず一人で黙々と唐揚げをたいらげ、家族みんなに怒られていた。

こんな感じの小学生時代で、いろんな人に褒められることといえば「走るのが速いね、すごいね」ということだった。
また、母が「お母さんも昔は、あやみたいに足が速かったんだよね」と話してくれて、とても嬉しかったのを覚えている。

運動ができる私、足が速い私に価値を感じるようになったきっかけだと思う。

中学生時代 〜部活動での挫折経験と受験失敗。他人に「すごい」と言われるための人生へ〜

中学校では、「どんなスポーツもできるように、基礎体力をつけたい」という思いと「走るのが得意」という理由で陸上部に入るつもりだった。だけど、陸上部が新入部員の募集を停止していたので、仕方なくソフトボール部に入部することにした。

足の速さを買われ、1番打者に抜擢されたり、セカンドや外野のポジションについたりするようになり、少しずつソフトボールの面白さを感じ始めていた。

中学2年生の秋、自分たちの学年に代替わりした。その時に私は”真面目”という理由だけでキャプテンを任せられた。
キャプテンがキャッチャーをするという風習に逆らえず、流れのままにキャッチャーに転身することに・・・。

昔からボールが怖くてたまらなかった私は、ボールが飛んでくるキャッチャーポジションは苦痛でしかない。いつも怖がってボールを後ろに逃してしまい、自分が不甲斐なくて、チームメイトに泣きながら謝っていた。

謝りすぎて、顧問の先生に「ごめん禁止」と言われたこともあるくらい。

ソフトボールが面白くなくなってしまったし、自分の力を発揮できない感覚が強くあった私は「やっぱり私の価値は、速く走れることしかない」と思った。

さらに、部活動でうまくいかない私は、なんとか自分の力を発揮して自分の価値を証明できるところを見つけたかった。ソフトボールで自分の力を発揮できないフラストレーションをカバーするように生徒会に立候補、無事当選し、活動に勤しむようになった。

元々、人前に出るのが好きな方。また生徒会では、委員ごとの活動があり、それぞれの委員会活動を良くするために真剣に取り組んでいた。お互いの道を頑張る同士みたいな関係性が心地よくて、それがとても楽しかった。

「生徒会活動がある」と言えばソフトボールの練習もサボれたので、ますます生徒会活動の方にのめり込んでいった。

勉強は、2〜3日勉強するだけで、80点以上を取れる学力だった。周りからは「勉強できるもんね」とよく言われていた。それも、中学3年生の夏まで。部活を引退してから成績が急激に下がり始めた。

部活がなくなって、土日も暇になった。時間はあるけれど、特にやりたいこともなく、生活のメリハリがなくなった。結果、勉強もしなくなり80点くらいの平均点が70点を割ることも増えた。

私よりも成績が悪かった子でも、受験に向けて塾に行き始めたりして、いつの間にか成績を抜かれていた。だけど、私はどうしてもやる気が出ず、毎晩2時間以上、父のパソコンでネットサーフィンをする日々。そこから抜け出そうと頭ではやらなきゃ、走ったりして生活も変えた方がいいと思うものの、やる気が出ず燻り続けていた。

高校受験は、「姉2人と同じは嫌。すごいと思われるようなところがいい」と違う高校を志望した。当時、普通教科だけでなく専門教科などを学べる人気の高校に行きたかった。しかし勉強に身が入っていなかった私は見事に不合格。

その後、受験した公立高校は総合選抜で(希望する学校を選べない)行ったこともない学校に入学することになった。

行きたい高校にいけなかったので、ますます「勉強ができない私」と自分を認識するようになった。

「小学生の時は、なんでもできたのに、中学生になってから、できないことだらけになってしまった。姉や弟と違って、やっぱり私は必要がないのに生まれてきてしまったんだ。」と私は必要のない人間だと思い込みを強化していく。

他人から必要とされなければ、意味がない。他人に必要とされている人は「すごい」と言われる人だから、すごいと言われるためにはどうしたらいいか?この辺りから拗らせた思い込みによって「すごいね」と言われることを求める人生になっていったんじゃないかなー・・・。

高校生時代 充実した部活動と再び受験失敗〜

高校では念願の陸上部に入部。小学生のころやっていた硬式テニス部と迷ったけれど、陸上部を見学したときに出会った友だちが「一緒に入ろうよ」と声をかけてくれて陸上部への入部を決めた。

高校の部活は今振り返っても本当に楽しかった。だから誘ってくれたその友だちには感謝しかない。

走ることが得意だったし、先輩・後輩・男女問わず、それぞれ自分と向き合って練習していく。練習は自分との戦いだけど、その感覚を共有できる仲間がいること。そしてそれがお互い力になって切磋琢磨していけることがとても心地よかった。しんどい練習もみんながいたから乗り越えられたと思う。

女子の短距離メンバーのなかで、私は一番タイムが速く、地区大会は決勝に進むのは当たり前だった。部活は楽しいし、結果も出ていて自分に自信が持てた。

勉強は相変わらずで、どんなに頑張っても学年300人中100位以上に入ることはなかった。成績は悪くても自分には楽しんでいるもの、夢中になれるものがある、つまり自分は必要とされている存在であるということが言いたかったのだろう。

「部活動のために学校に通っている」と、声を大にして友達や家族によく言っていた笑

部活動引退後、受験勉強が始まった。頑張ろうと思うものの、中学時代と同じく、全くやる気が出なかった。

だけど、「自分には運動しかない」と思い込んでいた私は「運動の仕事=体育の先生だ!」と安直な考えで教育大学への受験を決めた。体育大学ではなく、教育大学を志望したのは、今まで出会ってきた素敵な先生たちが全員、教育大学出身だったからだ。また、国立大学を受験していた姉たちに負けたくないから自分も国立を受験すると決めた。

しかし、またもや受験失敗。1勝7敗という結果に。

大学進学時、浪人という選択肢も母が提案してくれたが、浪人してまで行きたいと望む大学はない。その中で勉強し続ける苦しさを無意識に感じていたのだと思う。唯一受かった私立の健康科学部に進学を決めた。

大学のランクは兄弟で自分が一番下で、姉たちに負けた気分で「やっぱり私はできない、ほら、私は必要とされてない人間でしょ」といじけていた。

のちに、たまたま大学の広報ポスターに掲載される機会があった。父はそのポスターを人に自慢するほど、私の大学進学を喜んでくれていた。年間100万を超える学費も当たり前のようにサッと出してくれた。

必要とされていない人間に学費なんて出さない(笑)今思えば、両親に愛されていたことも明白だ。

”必要とされていない”なんて自分の勝手な思い込みだったこともわかるけれど、当時は気づかなかったし、それくらい強い思い込みだったんだなー。

大学生時代 陸上競技を手放す〜

入学後すぐに陸上部に入部した。他のサークルなど全く検討もしなかったのは、”陸上をしている自分”に価値があるという意識が大きくなっていたからだと思う。

先輩が4名と同級生が6名の合計10名の小さな部活だった。

もちろん練習環境は整っておらず、私たち陸上部の専用の練習場所はなかった。いつも車で20分かかるような地域の競技場を転々として練習。
みんなで集まって練習をしているのに、やることは個人任せ。それぞれが何を目指して練習しているかもわからない・・・。

高校の時は、顧問の先生が全てメニューを作ってくれていて、何も考えずに与えられたメニューをこなしていたし、それぞれの目標を共有して切磋琢磨していた。

大学の陸上部に入ってからは、どうやって練習したら良いのかメニューの作り方もわからず戸惑った。

「あんなに好きだったのに、陸上競技のこと、何もわかってなかったんだ」と、自分では何もできないことに落ち込んだ。そこから改善する術もわからず、陸上が楽しくなくなって、好きなことにも夢中になれない自分に嫌気がさした。

そんな大学1年生の秋に同級生の彼氏ができた。学内で一緒に勉強したり、一緒に登下校したり、デートしたり、全てが新鮮で楽しく、「彼といること」に夢中になった。ますます部活動から足が遠のいた私は、2年生に学年が上がる頃、退部を決めた。

顧問の先生に「本当にいいのか、もったいない」と何度も言われた。「やる気が出ない状態に苦しんでるのに、解決策を教えもしないで、引き止めんなよ」と怒りが湧いた。自分でも、もったいないことぐらいわかっているし、できれば辞めたくなかった。だけど、苦しみからなんとかして逃れたかった。

同じ頃、学科内成績優秀者上位2名に選ばれ、表彰された。同級生たちからは「すごい」と言われるし、奨学金ももらえて嬉しいはずなのに、この時は全然嬉しくなかった。

理由は「高校の勉強の惰性で取れた」「全然頑張ってない」と感じていたから。人から褒められても自分が納得いっていなかったんだと思う。

それからというもの、授業へのモチベーションが上がらなくなり、私は遅刻が増え、成績も10位ほど下降していった。

彼との関係は順調で、毎日楽しくもあった。その一方で、陸上競技を手放したモヤモヤした気持ちや、現実逃避しているような感覚だった。

私は「何がしたいのか」「何になりたいのか」そんなことばかり考える毎日。

そこから抜け出したいと考えた時に、ちょうどフィットネスクラブでのアルバイトの募集を見つけた。

新しいことに挑戦するワクワク。無事合格してフィットネスクラブでアルバイトを始めた。陸上を辞めた自分、そこに対して感じているモヤモヤを払拭したかったし、まだまだこんなもんじゃないと思いたい。陸上は辞めてしまったけど、少しでも運動に関わる仕事がしてみたかった。

ただ、自信のない自分もいて、ジムのトレーナーではなく受付業務のフロントを選んだ。自分の接客でお客様が喜んでくれたり、それを評価してくれた社員の人たちのおかげで、とてもやりがいを感じながら働くことができた。またスタッフ同士の仲が良く、一つの目標に向かって、みんなで一生懸命取り組む、そんな雰囲気が好きだった。

今思えば、中学の生徒会や高校の部活動の時も似た感覚だった。みんなで同じ方向に向かって、それぞれが夢中になっている感じ。その雰囲気が私は好きなんだろうな。

3年生の秋から就職活動が始まった。同級生たちは、教員採用試験を受験する人が多く、就職活動をする人は少数だった。学校推薦で就職先が決まった人もいた。そんな友人たちを見て「私は他力本願の人たちとは違う」と心の中でバカにしながら、黙々と就活に取り組んだ。

私はみんなとは違うことを証明したくて、その思いをエネルギーに変えていた私は、関西のフィットネスクラブの会社に内定をもらった。人生で初めて「自分で進路を決めれた」と感じ、「自分すごいじゃん!」と、とても自信になった。

毎年30名ほど入社する会社だったが、私が入社した年は東日本大震災の影響もあって、同期が5名。

「あなたたちは、約130名の中から選ばれた5名」と人事担当者から言われ、私はそれを自慢げに両親に伝えた。姉たちに勝利した気持ちにもなった。なぜなら、姉たちは、就活をほとんどせず、コネで就職を決めていたからだ。特に、選ばれし5名の一枠を自分の力で掴み取ったんだ、そんな気持ちだった。

フィットネスクラブ正社員時代 〜他人の評価を気にして不安の渦の中へ〜

1ヶ月本社で研修を受けた後、会員数3500名ほどの店舗へ配属された。近年流行りの24時間ジムの会員数の平均が700名ほどと言われているので、それと比べても大きな店舗だったとわかる。
アルバイトでの経験もあり、フロント業務や、接客、電話応対には自信があった。

だけど、運動指導に関しては素人同然。大学時代に勉強したことも、現場ではどう活用したらいいかわからなくて、全然役に立たなかった。何が正解なのかわからないまま手探りで、とにかくずっと自信がなかった。

それとは裏腹に「こんなところで満足するような人間に絶対なりたくない」と、先輩や同僚たちを心の中でバカにしていた。他人を見下すことで、「自分の方がすごいんだ。だから、私はもっと必要とされるべき存在なんだ」と自分の価値を見出そうとしていたんだと思う。

すごい自分でいるために、ウェイトトレーニングに励んだり、トレーニングの本を読み漁ったり、足りない自分を埋めるように、とにかく必死だった。

就職して1年が経った頃、「自分はこんなもんじゃない」「他に自分が輝けるところがあるはずだ」「だからこんなところは辞めたい」そんな風に考えるようになった。

フィットネスクラブでのトレーニングは、陸上競技のトレーニングと比べて、物足りないし、レベルが低い。私はもっと専門的ですごいことがしたい。

今考えると、その物足りなさは単純に運動量や運動強度の違いだとわかる。そもそも種類が違うんだと認めることができるけれど、当時の私は「アスリート指導だったら満たすことができる」と思い込んでいた。

誰でもできるフィットネスの仕事より、アスリートの指導の方が狭き門。レベルが高く、他人との違いが明確になる。すごいと言われそう。

今となってはわかるのだが、とにかく私は、自分がすごいと思われるための材料探しをずっとしていたのだ。他人からすごいと思われることが「自分のやりたいこと」だと本気で思っていた。

知識がない自分は、いきなり指導はできないと思い、大学院への受験を決めた。
こうして私は、就職してちょうど2年で退職をした。

大学院生時代 生きづらさの最高到達点へ〜

大学院にはすんなり合格した。
勉強に集中できるように、と学校の敷地内にある共同の寮に引っ越した。初めは、新しい環境への期待と楽しみがあり、学習意欲も高く、頑張れた。念願の陸上競技も再開できて、学部生の子達と一緒に練習したり、試合に出ることもできた。
だけど、自分が思い描いたような理想の大学院生活ではなかった。

フィットネスでの社会人経験があるのに、チームメイトの学部生達に陸上について特に教えられるほど知識も経験もない。
研究室で行われる勉強会の内容が全く理解できない。英語の論文が読めない。思ったように体が動かず、全然走れない。

そんな自分が惨めで、どうしようもなかった。

入学して3ヶ月が経ったある日、朝起き上がろうとしても、どうしても起き上がれなくなった。
頑張っても体が起き上がらない、という感覚に近いかもしれない。
何もしていないのに涙が出てくる。3日間、ベッドの上から動けなかった。今思えば、軽い鬱状態だったのではと思う。

「仕事を辞めてまで始めたことなのに、どうしてやりたくなくなっちゃうんだろう」「やりたいことのはずなのに、どうしてこんなにしんどいんだろう。どうしてこんなに苦しいんだろう」
そんなことばかり考えて自分を責めていた。

「こんなにできないし、続かないのは運動や陸上競技がそこまで好きではなかったからだ。」「勉強と研究を履き違えていたんだ。」そんな風に思って、自分の選択を後悔したし、しばらくショックから抜け出せなかった。

そんな時、ある心理セラピストさんのブログに辿り着く。社会人の時に貯めた、なけなしのお金で東京までセラピーを受けにいった。
そこで一筋の光が見えた。

セラピーを受けてわかったのは「感じる」ことと「考える」ことの区別がついていないということだった。例えば、今までの部活動の経験から、「練習したくない」「しんどい」と感じていても、「しんどい練習を乗り越えたら、上手くなる」「練習はするべきだ」と、感じたことを打ち消すように思考を働かせていた。今となってはわかるのだが、しんどい練習や人間関係を乗り越えるために無意識にやっていたんだろう。感情というものがわからなくなるほど、蓋をしないとやっていけなかった。

私の場合は、何でも無理やりポジティブに考えるような癖がついていたことにも気づいた。
それがわかってから、世間的にネガティブと言われるような感情を感じても、いったん自分の中で受け止めることができるようになった。”ダメな自分を許していく”、そんな感覚だった。

あとは、ずっと引きずっていた陸上競技を諦めた経験を、自分の心が弱いせいだと思っていたけど、初めて自分の感情に素直に従った結果だったと認めることもできた。

そこから、寮を出て実家に戻った。陸上部の練習は参加せず、大学院へは週に数コマの授業の時だけ行くようにした。研究室の活動にもほとんど行かなかった。とにかく休むことにして、少しずつ心と体が回復していくのがわかった。

修士1年生が終わる頃、指導教官の先生に、自分の気持ちを素直に打ち明けることにした。

「研究に興味が持てないので、辞めます」。
先生は私を肯定も否定もせず、「せっかく仕事を辞めてまで大学院に来たんだから、もったいないよ。なんとしてでも修了できるようにしてあげるからさ。」と丸々受け入れてくれた。「とりあえずハワイにでも行ってきたら?(笑)」と冗談を言って笑ってくれて、当時の私はとても救われた。

そこから1年、同じ研究室の先輩や指導教官の先生に力を借りながら、なんとか修了することができた。

今まで、やる気が100%ないとダメだと思っていた私。「やる気やモチベーションが上がらない、そんなグレーな状態のまま、行動してもいい」と、自分を許す良い経験になった。

また、心の余裕ができた私は、所有する教員免許が活かせるアルバイトがしたいと思い、学童保育所で働くようになった。働いた期間こそ短かったものの、ここで出会った先生の教えが、その後教員への道を開いてくれた。また、教員としての私の土台にもなっている。

教員時代 〜被害妄想的な思考のクセに気づく〜

就職は知り合いの紹介で決まり、私立小学校の体育教員として、非常勤(契約社員)で採用してもらうことができた。

小学校では担任の先生が全ての教科を教えるのが一般的だが、学校によっては音楽や図工、家庭科など、特定の科目を専門で教える教員がいる。だけど、体育を専門に教える教員がいるというのは、割と珍しい。だからこそ、小学校で体育を専門に教えることができる職をもらえるなんて、私にとって夢のような話だった。

1年目は授業でやる内容を、A4用紙に台本を事細かに書いて授業に臨んでいた。「小学生を相手に授業をする」ということが、初めての経験だったので、とにかく毎回緊張していた。緊張はするものの、直近まで勤めていた学童保育所とはまた違った子どもと関わる面白さを感じた。

学童保育所は、一緒に遊んだり、宿題をみたり、おやつを準備したり、ケンカの仲裁をしたり、子どもたちと生活を共にする場所。だけど、学校は「体育」という教科を通して、子どもの能力を高めたり、コミュニケーションの方法など生活というより、教育要素が強いため、とてもやりがいを感じた。

特に、授業の中で気づきを促すような質問をして、子どもたち自身が変わっていく様子をみるのが本当に楽しかった。子どもたちが自分で気づいて、やってみた時に、子どもたちの表情が晴れて、能力が伸びていくことも経験してわかった。

働きぶりが認められたのか、2年目は常勤講師(契約社員)として契約してもらうことができた。一方で、直属の先輩の出来の良さと、自分の仕事の出来なさを比べて「仕事ができない私はダメな人間」「任される仕事がない」「やっぱり私は必要とされていない」とせっかく契約してもらったにも関わらず、自分を責める日々が続く。

そんな日々を繰り返し、妄想までするようになった。先輩にきっと「こんなことも知らないのか」「自分で考えて動けない奴」と思われているだろうなといつも考えていた。そんなこと一切言われていないのに、、、

だから授業の内容や子どもへの指導など、他の先生たちに見られないようにと隠すように仕事をしていた。できないヤツと思われるのが怖かったし、こんな日々を辞めたくてたまらない。

毎朝、職場に行くと蕁麻疹が出て、朝礼が終わると女子トイレの個室にこもって泣いた。職員室にかかってくる電話が全て自分へのクレームなのではと、電話が鳴るたびに怯えるようになった。

怯えながらは働けない。何とかしようと「感じない感じない」と唱えていて口癖のようになっていた。この言葉を唱えたら、外の声が聞こえなくなる感じがして、一時的に楽になれたからだ。

そうやって感じたことを押し殺していくと、何とか毎日やり切れるようにはなってきた。ただ、感情に蓋をしている苦しさを抱えて、とにかく目の前の仕事をこなした。

そんな中、お付き合いしていた彼にプロポーズをされて、結婚することになった。お付き合いを始めて5年目の年で、そろそろという気持ちがあり、「やっとだ!」と泣いて喜んだ。

結婚する安心感もあり、仕事を辞めたい気持ちに拍車がかかって「専業主婦になりたい」という願望が出てきた。「結婚を理由に仕事を辞められる」と、仕事を辞める自分を正当化したかったのかもしれないと今は思う。

本当に仕事を辞めるかどうか悩んだ私は、コーチング型の悩み相談のサービスを受けた。悩みを相談してわかったのは「専業主婦になりたい」という望みは、本当は「心の余裕を持ちたい」ということだった。

相談をした時、私は心身ともに疲労困憊。私が勤めている職場は夏休みや冬休みに長期休みがある代わりに、月曜日から金曜日まで毎日10時間勤務だった。それに加えて月に1〜2回、土曜日の勤務もあり、肉体的にも疲労がなかなか抜けきらないまま、働いていた。

悩み相談する前は、肉体の疲れだけがしんどさの原因だと思っていて、家族や彼氏に「フルタイムで働くことに向いていない」とぼやいていた。

心の余裕を持ちたいことに気づけた私はそこから、心の余裕を持てるようにという判断基準で、まずは動いてみようと決め、行動を変えていく。

毎朝30分前に出勤していたのを、時間ギリギリに出勤。
他の先生たちの退勤を待たずに、自分が帰りたいタイミングで退勤。
授業や業務がない時は積極的に有給休暇を取る。

やってみると、特に「こうした方が良い」「こうしなければいけない」という考えが、しんどさの原因だったということがわかった。これまでは人の目を最優先にして、勝手に被害妄想的になっていた自分に気づくことができたし、心の余裕という基準を持つと、少しずつ自分のために動けるようになっていった。

結果として心に余裕ができ、前より何倍も楽に働けるようになった。
働く時間が減って、休日も増えたのに、結果的に給料も上がっていったのだ!

そして、年度が終わる3月。専任教員(いわゆる無期雇用の正社員)への昇格が決まった。
後から先輩に聞いた話だと、1年で専任教員になることは、稀なことだそうだ。
勤務時間は減ったのに、こうやって人からも評価してもらえるなんて。自分が自分を苦しめていたんだなーと思えた。

このコーチング型のサービスを受けて自分の思考に気づけたことが、今私がコーチとして活動することができている、大きなきっかけになった。

ライフコーチングとの出会い 〜コーチとしてのスタート〜

専任教員になって2年目の冬に出産した。1年の育児休暇をとって復帰した。復職したあと、再び被害妄想的な思考になり、自分を責める日々になっていった。

時短勤務を希望したので、役職がなくなり、与えられる仕事は一つだけになった。私より後に入ってきた後輩がいろんな仕事を任されるようになっていて、負けたような気持ちになり、とても悔しかった。

子どもの体調不良で仕事に穴をあけることも多くなり、働きたいのに働けない。同僚に頼られることもほとんどなくなった。ここでも「やっぱり私は必要とされていない」という思考パターンが発動して苦しんだ。

復帰2年目に入る時、今までのように苦しいまま働くのは嫌だと思った私は、コーチング型のサービスを受けていた頃のように、今の自分の状況を客観的にみてみることにした。

すると、自分が望んだすごく働きやすい環境が与えられていることに気づいた。

当時の学院の規定では、時短勤務でも給料は変わらなかったし、仕事量が少ない分、自分の受け持つ授業だけに集中することができた。仕事を休んでも、フォローしてくれる先輩後輩にも恵まれていた。

働く時間がさらに減り、仕事の負担も減っている。「働く時間を減らして楽に働きたい」という自分の望みが叶っていたのだ。

起きる事象を丁寧にみることで、「自分はダメなヤツ」で片付けず、「本当にそうなのか?」と自分に問うことができ、自分の否定的な認識を変えられるようになっていた。今までコツコツ自分に向き合ってきた経験が、活きた瞬間だった。まさにこれが、コーチングの効果だったと、今となっては思う。

こうして仕事と子育てのバランスがうまく取れ始めた私は、純粋に自分が「やりたいこと」をやってみようと思った。ちょうどその時、気になっていたライフコーチのセミナーを受講し、ライフコーチワールドという日本初のライフコーチング専門スクールで学ぶことに決めた。

コーチングを学び、ひたすら自分と向き合っていく中で、これまでのことを振り返った時、幼い時の「必要とされていない」「愛されていない」という小さな思い込みから、自分の価値を親や他人に委ねて、必死に頑張ってきた。
でも本当は私は家族から必要とされていたし、愛されていたことに気づいた。「必要とされていない」「愛されていない」という思い込みから解放された時、一瞬にして体の感覚が軽くなり、涙が止まらなかったのを今でも覚えている。
指導してくださったコーチに「小さな”こあや”が癒されたんだね」と言ってもらって、本当にその通りだと思った。

コーチングってすごいな。こんなに楽に生きれるようになるのだから。

コーチングスクールに通い始めた時は、ただただ学んでみたいという気持ちで受講していた。
でも、とんでもなく楽に生きれるようになって、たくさんの人にこの感覚を味わってほしいと思い始めた。

事実を客観視して、物事の見方を変えるだけで、誰でも楽に、簡単に、幸せに生きられること。
必要とされていない、愛されていない人なんてこの世にはいないこと。
自分の価値を外側の何かで測らなくてもいいこと。

この感覚がわかった私は、今はもう必要とされていなくても、愛されていなくても、どちらでも大丈夫と思えるようになった。
なぜなら、私は私で価値がある存在だからだ。

そして2023年3月にスクールを卒業し、現在はパラレルワークで、教員をしながらライフコーチとして活動している。
また、2人姉妹の母として、時に泣き、時に笑いながら、年上の夫と共に育児を楽しんでいる。

今はいいことも悪いことも人生全てが楽しい。